うつくしくないベル

美女と野獣という映画をご存知だろうか。


大抵の人の答えはyesだろうと思う。有名なアニメーション映画だ。かくいう私は、アニメ版を通しでしっかりみたことはない。ぼんやりとながら見したことはあるが、やぁやぁ私は今から美女と野獣を見るぞ、と思ってみたことは記憶の上ではない。そんな私も、当該映画が実写化された際には劇場に足を運んだ。ベル役のエマ・ワトソン目当てに、その美しさを一目見ようと「美女と野獣」を見た。


その日はおそらく1人で映画を見に行った。レイトショーだったかレディースデーだったかは覚えていないけれど、鑑賞後に感想を言う相手がいなかった覚えがある。なぜそんなことを記憶しているかと言うと、感想を言いたい!と強く思うほど良い映画だったからだ。

話は少しずれて、美女と野獣という物語はエマ・ワトソン主演のもの以前に一度映画化されている。2014年にレア・セドゥというフランスの女優が主演で作られたものだ。フランスとドイツの合作で作られている。(と、ネットにはある)。そもそも美女と野獣とはフランスの民話が元になっているので、フランスで映画になるのはごく自然なことだ。

この、2014年のレア・セドゥ版美女と野獣も公開当時見に行った記憶がある。こちらは一人で見たのではなく、デートに誘ってくれた男の子と見た。個人的には消化不良な部分が多く、結果としてそのデートも次には繋がらなかった。映画の出来とデートの出来の因果関係は未だ不明である。


母国フランスで作られた美女と野獣はしっくり来なかった私だが、ディズニー制作のエマ・ワトソン美女と野獣はかなり心に響いた。何度も何度もサントラを聴いて、物語を思い出している。一時期はサントラを聴くだけで映画などの場面がわかるくらいだった。


なぜ、レア・セドゥ版であまり心打たれなかった私がエマ・ワトソン版でここまで感動したのか?全ての答えはベルの孤独の描写にある。

レア・セドゥ版だと(一度しか鑑賞していないので記憶は曖昧だが)、ベルの孤独はそこまで表現されない。一方、エマ・ワトソン版だと物語の序盤にこれでもかというほどベルの孤独が強調される。

映画が始まって、物語は小さな村から始まる。そこで、ベル役のエマ・ワトソンが歌い始める。


小さくて静かな村、今日もいつもと同じ日が始まる。


排他的な村を表現しているのに朝の清々しいメロディにのせてベルは孤独を歌う。

ベルの村では誰も本を読まない。美しさという力を生まれ持ったベルは虐められこそしないものの、村の人々から口を揃えて「変な子だ」と言われる。「体の具合でも悪いんじゃないか?」とも。日本語版の歌詞だと「綺麗だけれど親しくはなれない」とはっきりと言われる。ベルは、自身が孤独だと感じている上に、はっきりと村の住民に排除されている。ベルの自覚は村の住民の態度に裏付けられたものなのだろう。


私は、このベルの孤独に強く惹かれた。気持ちが悪いほどの自意識故だ。私は、恥ずかしながらベルと自分を重ねたのである。

私は小さい頃からとにかく本が好きで、静かな空間が好きだった。黙って本を読むこと。これが、私の幸福な時間だった。小学校は片田舎にあって、私以外に本を読む子はほとんどいなかった。中休みは必ず外に出なければならなかったので、外に出て日陰に座って本を読んだ。

別に友達がいないわけではなかったが、親友と呼べるような存在はできなかった。人付き合いを深く学べないまま、小学校を卒業した。

中高大と進むと、友達は増えていった。けれども、変なやつ!と言われるのは変わらなかった。大学時代は変なやつだらけだったので気にならなかったが、社会人になると同時に、小学校の頃のような「異質さ」を再び感じ苦しくてたまらなくなった。


エマ・ワトソン美女と野獣が日本で公開されたのは2017年4月後半のことだから、私は社会人になって自らが異質と認定される社会に出てすぐこの映画を見たことになる。そこで、私はこの映画に強く惹かれた。ベルは、小さな村を飛び出して自らの理解者に出会うことができた。そんなベルに憧れを抱いたのだと思う。いつか私も、私の理解者、私の魂の半分を見つけられるのではないかと。


悲しいほど痛々しいけれども、当時の私はピュアに夢を見た。私はベルのように美しくはないのに、夢を見てしまった。

今私は、カーステレオからランダムで流れてくる美女と野獣のオープニングを聞くたびにただただ哀しくなる。

うつくしくないベルは、魂の半分を未だに見つけられない。