「一生待ってる」という戯言

題にある通りの内容だ。一生待ってる、という戯言。


この台詞を何度か頂いた記憶がある。なぜ彼らがわたしにこの言葉を差し出してくれたのかはわからないが、恐れ多くも私のために待ってくれている人がいるらしい。


という戯言だ。

確かに私はその言葉を貰った。けれども、空々しくてきちんと受け取ることは一度もできていない。まず第一に私は一生続く何かを親の愛以外で信じていないし、第二に、簡単に「一生」などという人間を信じない。


一生待つ、とはどういうことか。

この先長い人生で、私の気持ちが動くのを待つと言うのが本当に可能なことなのか?

勿論、仙人のような人なら可能だと思う。なにも望まず、ただじっと待つ。それができる人の言葉なら、価値があるのだろう。

ただ、所詮このようなことを口にするのは人間だ。彼らはきっと目の前のご馳走を我慢できないし、いずれは子供が欲しいとか家庭が欲しいなどの願いも持つだろう。そんな中で一生待つなんてことは到底無理な話だし、私も全く望んでいない。

ほとんど叶う見込みのない宣言を盲目に信じることはできないし、かえって私はこう思ってしまうのだ。「きっとこの人はこの宣言をいつか嘘に変えるのだろう」と。


私はとにかく嘘をつかれるのが嫌いだ。

信頼を裏切られるのが怖い。嘘をつかれたい人なんてほとんどいないだろうけど、私はどんなに小さな嘘に対しても大きな拒絶反応を表してしまう。きっと家庭環境等が強く影響しているのだろう。

そして、前提として私は運命とか一生に一度の恋、なんてものの存在を否定している。各々の感性には存在するのだろうけど、私の人生には現れないものだ。それは親の離婚、再婚を見ていることが原因だ。愛し合っていた2人は皿を投げ合うような喧嘩をすることになりうるし、唯一無二でない愛情が穏やかな生活をもたらすこともある。

こういった私の価値観からすると、恋とか愛といった揺らぎの大きい感情に「一生」なんて言葉を使うのはかなり危ういことだし、それはいつの日か私の大嫌いな嘘に変わる言葉でしかない。


実際、件の発言をした人の中で一生待ってくれた人はいない。

まだ私の一生は続いているので、屁理屈を言えば結果はわからないが、皆幸せに過ごしている。(本当に喜ばしいことだ。)

だから今後いくらこの言葉を頂いても、私は信じることはないし、気持ちが動くことはないだろう。


ただ、一時でもわたしに永遠を感じてくれたことは嬉しい。あなたに幸あれ、と思う。