私の父は数年前にこの世を去った。


私は父がとても好きだった。父は愉快で、知的で、頼り甲斐があって、狂っていた。誰よりも頭が良かったのに、それをこの世の中のために使おうとは微塵も思っていないような人だった。わがままで、子どものような人だった。私は父の冗談や、嫌味や、皮肉も好きだった。どれもなぜか下品ではなく、クスリと笑えたからだ。父は、母にとって良い夫ではなかったと思う。けれども、私は本当に父が好きだった。


今でも父が夢に出てくるときがある。

そういうとき、私は父にハグをする。生前も、思春期に入ってからはなかなかしなかったことだ。生きているときにすれば良かったのだろうか、などとぼんやり考えながら、父の腕の中にいる。夢を見ていても、私は父がこの世にいないことを知っている。すぐ夢だとわかるのだ。そして、夢でも会えて嬉しい、と思う。死とは、会えなくなることだ、と恋人が言っていた。けれど私と父は、父が亡くなった今も夢で会っている。夢の中の父も、自分が生きていないことを知っている。私たちはもう会えないことをお互いに知っている。けれど、私は父の死後も父と会っている。(父はどうだろうか。私と会えているだろうか。)


そういう夢を見た日の朝は、少し父のことを考える。会いたいな、と思う。もう2度と会えない、ということを深く考える。生身の父に会えない、もう父が世界のどこにもいないことを思う。寂しい。

一方で、覚悟していた寂しさだったことも思い出す。父は私くらいの子どもの父親としてはかなり高齢だったし、私が幼い頃から病気がちだった。私は随分前から、父が私の前からいなくなってしまうことを考えていた。だから父が亡くなった時も大きな驚きはなかった。ただ、最後の一葉がハラリと落ちてしまったような感覚だけがあった。

その葉っぱが落ちた時の感覚を、夢を見た次の日の朝、思い出すのだ。

とても静かで穏やかな、優しい悲しみだ。


昔読んだ本の中で(江國香織か?忘れた)、こんなフレーズがあった。

「本当に人を好きになるとね、その人のすること全部、許せてしまうものなのよ。」

恋愛としての好きではないにせよ、私の父への態度はこれだ。私は父によってもたらされた幸福だけでなく、私の今後の人生への悪影響も、早くにいなくなってしまったことからくる悲しみも全て受け入れ、許している。


今の恋人と、そうなりたいと切に願う。また私は、誰かと許し合いたいらしい。


父は素晴らしい人だった。最後の最後まで私はこの記憶を共に生きていきたい。

パパ、ありがとう