継続は力か 停滞は悪か

コロナ禍になって久しい。人々の生活は止まったように見えて、しかしなお緩やかに続いている。その継続は止まることのない川の流れようで、強く美しい。

私の周りの人々の生活も流れている。そしてその流れは、人々によって作られている。彼ら彼女らが流している生活だ。意思をもって進んでいる生活だ。


人生100年時代というが、本当に我々が100年生きるとすれば私は今ちょうど4分の1程度生きたことになる。人生を一年で例えると3月が終わったところか。春に向けて雪解けの準備をする段階だ。皆、準備をしている。私を除いて。


結婚、または別離、転職。そんなニュースを何度聞いたかわからない。反応のパターン化も完成しつつある。ルール化されたものを適用するのは得意なので、人生の決断をした人々に対して正しい餞ができていると思う。

しかし、私は今戸惑っている。そして憧れてもいる。私は決断ができない。今の生活の一部分すら欠けさせることができないのだ。


何かを得るということは同じ大きさの何かを失うということだ。恋人と別れれば自由の代わりに愛を失う。結婚すれば配偶者と安定、さらに運が良ければ愛を得られるが、恋人と自由を失うことになる。職ならもっとクリアに得るものと失うものが見えてくるだろう。とにかく、私が人生で得られるものの大きさは常に変わらない。それは私が今まで生きてきた中で見つけた一つのルールだ。


だとすれば人生における選択は、持ち物の大きさが変わらない中でどうそれを自分好みのものに変えるか、というものになる。そうやって皆仕事を変えたり、恋人を変えたり、住まいを変えたりするのだろう。そしてそれは生活を前に前に流していくこととなる。


私に足りないのは、こうありたいという強い欲求だ。

必ず結婚したいか?否。では1人で行きたいか?否。必ず子供が欲しいか?否。仕事で成功を収めたいか?否。長生きしたいか?否。

どんな仕事をしたいとか、そういった感情もない。

強いて言えば、穏やかで静かな生活がしたい。たまに甘いものを食べて、本を読んだり友達と話して過ごしたい。絶対に安心なところで眠り、夏は涼しく冬は暖かい場所で生きたい。これらは全て叶っている。


欲は全て満たされているので、変える必要がないのだ。しかし、これよりも生活が良くなるビジョンも見えない。仄かな希死念慮と共に惰性で生きている。もちろん積極的に死にはしない。辛うじて親だけは私の死を真の苦しみとするだろうから。


私はよく言えば堅実に生活を継続している。しっかりとした足場があるように見えるだろう。しかしこれは極めて消極的な選択の結果だ。軒下には何もない。私の熱意や活力は私を支えていない。

停滞している。停滞していることに焦ってもいない。周りの変化に戸惑っているだけだ。ただたまに悲しくなる。せめて何かを終わらせられれば気が楽なのかもしれない。


それかいっそ、安眠の場を手放せば少しは何か変わるだろうか。