失恋

恋人と別れた。理由は伏せるが、お互いに望まぬ結末だった。

しかし、私には愚かな選択だと感じながら隣にいるだけの強さがなかった。離れる決断を讃えてくれる友人は多かったが、今思えばその方が私にとってずっと楽だった。愛情と引き換えにして、おまえは間違っている、と耳元で囁く己の亡霊がいない生活を選んだだけのことだった。

人生の選択は常に等価交換だ。普段はより好ましいと思うものを手元に置くが、人との別れはそう単純ではない。恋人は最後まで私にとって何よりも好ましい存在だったので、どうして手放さなければならないのか何度も自問した。今に至るまで確立した答えは出ていないが、前述の通り私の弱さが大いに影響している。思考がまとまらないのも、イレギュラーな事態に戸惑っているのか、脳がひたすら逃避しているのか、わからない。別れたのは数ヶ月前なので受け入れることはできているが、散らばった情報の整理は未だできていない。文章もまとまらない。


素敵な恋人だった。私たちには愛があったと思う。

眠るときには大丈夫だよ、と言いながら頭を撫でてくれる人だった。本当になにもかもが大丈夫な気がして、子どものような気持ちで眠れた。

自由を愛する2人だったので、それぞれが好きなことをして過ごし、顔を合わせたときには感情や身体におけるお互いの素晴らしい冒険について話した。

寂しさとの共存ができる人だった。お互いの寂しさに関与せず、ごくたまに相手の孤独の隣に座り込むような時間を持った。孤独と3人で友だちになって、ただじっとしていた。

長い時間を過ごして、さまざまなことを共有して、形を変えて作り上げたふたりだった。私は恋人といると子犬かオオカミのきょうだいになったような感覚に陥ることがあった。雪のなかで戯れあって笑っているような気持ちだった。いちばんの友人だった。そして幸運にも、恋人でもあった。本当に運が良かった。


愛情には種類がある。だから、恋愛は何回でもできる。ただ、もうあの愛情には出会えない。この形の愛は永久欠番だ。私は別フォルダ保存タイプだから。

思い出すと瘡蓋が剥がれたようにじくじくと痛むが、何度も剥がして傷跡にしようと思う。私の人生にあの時間があって良かった。幸せだった。



継続は力か 停滞は悪か

コロナ禍になって久しい。人々の生活は止まったように見えて、しかしなお緩やかに続いている。その継続は止まることのない川の流れようで、強く美しい。

私の周りの人々の生活も流れている。そしてその流れは、人々によって作られている。彼ら彼女らが流している生活だ。意思をもって進んでいる生活だ。


人生100年時代というが、本当に我々が100年生きるとすれば私は今ちょうど4分の1程度生きたことになる。人生を一年で例えると3月が終わったところか。春に向けて雪解けの準備をする段階だ。皆、準備をしている。私を除いて。


結婚、または別離、転職。そんなニュースを何度聞いたかわからない。反応のパターン化も完成しつつある。ルール化されたものを適用するのは得意なので、人生の決断をした人々に対して正しい餞ができていると思う。

しかし、私は今戸惑っている。そして憧れてもいる。私は決断ができない。今の生活の一部分すら欠けさせることができないのだ。


何かを得るということは同じ大きさの何かを失うということだ。恋人と別れれば自由の代わりに愛を失う。結婚すれば配偶者と安定、さらに運が良ければ愛を得られるが、恋人と自由を失うことになる。職ならもっとクリアに得るものと失うものが見えてくるだろう。とにかく、私が人生で得られるものの大きさは常に変わらない。それは私が今まで生きてきた中で見つけた一つのルールだ。


だとすれば人生における選択は、持ち物の大きさが変わらない中でどうそれを自分好みのものに変えるか、というものになる。そうやって皆仕事を変えたり、恋人を変えたり、住まいを変えたりするのだろう。そしてそれは生活を前に前に流していくこととなる。


私に足りないのは、こうありたいという強い欲求だ。

必ず結婚したいか?否。では1人で行きたいか?否。必ず子供が欲しいか?否。仕事で成功を収めたいか?否。長生きしたいか?否。

どんな仕事をしたいとか、そういった感情もない。

強いて言えば、穏やかで静かな生活がしたい。たまに甘いものを食べて、本を読んだり友達と話して過ごしたい。絶対に安心なところで眠り、夏は涼しく冬は暖かい場所で生きたい。これらは全て叶っている。


欲は全て満たされているので、変える必要がないのだ。しかし、これよりも生活が良くなるビジョンも見えない。仄かな希死念慮と共に惰性で生きている。もちろん積極的に死にはしない。辛うじて親だけは私の死を真の苦しみとするだろうから。


私はよく言えば堅実に生活を継続している。しっかりとした足場があるように見えるだろう。しかしこれは極めて消極的な選択の結果だ。軒下には何もない。私の熱意や活力は私を支えていない。

停滞している。停滞していることに焦ってもいない。周りの変化に戸惑っているだけだ。ただたまに悲しくなる。せめて何かを終わらせられれば気が楽なのかもしれない。


それかいっそ、安眠の場を手放せば少しは何か変わるだろうか。



「一生待ってる」という戯言

題にある通りの内容だ。一生待ってる、という戯言。


この台詞を何度か頂いた記憶がある。なぜ彼らがわたしにこの言葉を差し出してくれたのかはわからないが、恐れ多くも私のために待ってくれている人がいるらしい。


という戯言だ。

確かに私はその言葉を貰った。けれども、空々しくてきちんと受け取ることは一度もできていない。まず第一に私は一生続く何かを親の愛以外で信じていないし、第二に、簡単に「一生」などという人間を信じない。


一生待つ、とはどういうことか。

この先長い人生で、私の気持ちが動くのを待つと言うのが本当に可能なことなのか?

勿論、仙人のような人なら可能だと思う。なにも望まず、ただじっと待つ。それができる人の言葉なら、価値があるのだろう。

ただ、所詮このようなことを口にするのは人間だ。彼らはきっと目の前のご馳走を我慢できないし、いずれは子供が欲しいとか家庭が欲しいなどの願いも持つだろう。そんな中で一生待つなんてことは到底無理な話だし、私も全く望んでいない。

ほとんど叶う見込みのない宣言を盲目に信じることはできないし、かえって私はこう思ってしまうのだ。「きっとこの人はこの宣言をいつか嘘に変えるのだろう」と。


私はとにかく嘘をつかれるのが嫌いだ。

信頼を裏切られるのが怖い。嘘をつかれたい人なんてほとんどいないだろうけど、私はどんなに小さな嘘に対しても大きな拒絶反応を表してしまう。きっと家庭環境等が強く影響しているのだろう。

そして、前提として私は運命とか一生に一度の恋、なんてものの存在を否定している。各々の感性には存在するのだろうけど、私の人生には現れないものだ。それは親の離婚、再婚を見ていることが原因だ。愛し合っていた2人は皿を投げ合うような喧嘩をすることになりうるし、唯一無二でない愛情が穏やかな生活をもたらすこともある。

こういった私の価値観からすると、恋とか愛といった揺らぎの大きい感情に「一生」なんて言葉を使うのはかなり危ういことだし、それはいつの日か私の大嫌いな嘘に変わる言葉でしかない。


実際、件の発言をした人の中で一生待ってくれた人はいない。

まだ私の一生は続いているので、屁理屈を言えば結果はわからないが、皆幸せに過ごしている。(本当に喜ばしいことだ。)

だから今後いくらこの言葉を頂いても、私は信じることはないし、気持ちが動くことはないだろう。


ただ、一時でもわたしに永遠を感じてくれたことは嬉しい。あなたに幸あれ、と思う。

私の父は数年前にこの世を去った。


私は父がとても好きだった。父は愉快で、知的で、頼り甲斐があって、狂っていた。誰よりも頭が良かったのに、それをこの世の中のために使おうとは微塵も思っていないような人だった。わがままで、子どものような人だった。私は父の冗談や、嫌味や、皮肉も好きだった。どれもなぜか下品ではなく、クスリと笑えたからだ。父は、母にとって良い夫ではなかったと思う。けれども、私は本当に父が好きだった。


今でも父が夢に出てくるときがある。

そういうとき、私は父にハグをする。生前も、思春期に入ってからはなかなかしなかったことだ。生きているときにすれば良かったのだろうか、などとぼんやり考えながら、父の腕の中にいる。夢を見ていても、私は父がこの世にいないことを知っている。すぐ夢だとわかるのだ。そして、夢でも会えて嬉しい、と思う。死とは、会えなくなることだ、と恋人が言っていた。けれど私と父は、父が亡くなった今も夢で会っている。夢の中の父も、自分が生きていないことを知っている。私たちはもう会えないことをお互いに知っている。けれど、私は父の死後も父と会っている。(父はどうだろうか。私と会えているだろうか。)


そういう夢を見た日の朝は、少し父のことを考える。会いたいな、と思う。もう2度と会えない、ということを深く考える。生身の父に会えない、もう父が世界のどこにもいないことを思う。寂しい。

一方で、覚悟していた寂しさだったことも思い出す。父は私くらいの子どもの父親としてはかなり高齢だったし、私が幼い頃から病気がちだった。私は随分前から、父が私の前からいなくなってしまうことを考えていた。だから父が亡くなった時も大きな驚きはなかった。ただ、最後の一葉がハラリと落ちてしまったような感覚だけがあった。

その葉っぱが落ちた時の感覚を、夢を見た次の日の朝、思い出すのだ。

とても静かで穏やかな、優しい悲しみだ。


昔読んだ本の中で(江國香織か?忘れた)、こんなフレーズがあった。

「本当に人を好きになるとね、その人のすること全部、許せてしまうものなのよ。」

恋愛としての好きではないにせよ、私の父への態度はこれだ。私は父によってもたらされた幸福だけでなく、私の今後の人生への悪影響も、早くにいなくなってしまったことからくる悲しみも全て受け入れ、許している。


今の恋人と、そうなりたいと切に願う。また私は、誰かと許し合いたいらしい。


父は素晴らしい人だった。最後の最後まで私はこの記憶を共に生きていきたい。

パパ、ありがとう

ちがうわたしたち

友人を待っている。

彼女が指定した待ち合わせ時間を過ぎてからもうすぐ15分になる。

腹は立たない。わたしは待つのが好きだ。


待つのが好きというより、止まっている時間が好きだ。物事を動かさなくて良い時間。私自身が止まる時間。待ち時間は否応なく止まることができるので、ちょうど良い言い訳とセットで、好きだ。


ふと思い出す。

今日ランチを食べた時、同僚の女の子たちが「彼に20分遅刻されるとすごく腹がたつ」という話をしていた。

みずみずしい怒りをぼんやりと聞き流しながら、私は怒らないだろうな、と思った。


私はあまり人に怒ったりしない。

でも恋人は私に「怒るのが趣味なの?」と聞いたことがある。

全くそんなことはない。私は、彼にだけ怒るのだと思う。


また、彼はとても落ち着いた人だ。

けれど、私の前ではかなり不機嫌になったり、反対にごきげんになったりする。

それは、私にだけらしい。


心の許し方が歪なわたしたちは、ちがう人間なのだなと思う。

これがつづくかは、わからない。

うつくしくないベル

美女と野獣という映画をご存知だろうか。


大抵の人の答えはyesだろうと思う。有名なアニメーション映画だ。かくいう私は、アニメ版を通しでしっかりみたことはない。ぼんやりとながら見したことはあるが、やぁやぁ私は今から美女と野獣を見るぞ、と思ってみたことは記憶の上ではない。そんな私も、当該映画が実写化された際には劇場に足を運んだ。ベル役のエマ・ワトソン目当てに、その美しさを一目見ようと「美女と野獣」を見た。


その日はおそらく1人で映画を見に行った。レイトショーだったかレディースデーだったかは覚えていないけれど、鑑賞後に感想を言う相手がいなかった覚えがある。なぜそんなことを記憶しているかと言うと、感想を言いたい!と強く思うほど良い映画だったからだ。

話は少しずれて、美女と野獣という物語はエマ・ワトソン主演のもの以前に一度映画化されている。2014年にレア・セドゥというフランスの女優が主演で作られたものだ。フランスとドイツの合作で作られている。(と、ネットにはある)。そもそも美女と野獣とはフランスの民話が元になっているので、フランスで映画になるのはごく自然なことだ。

この、2014年のレア・セドゥ版美女と野獣も公開当時見に行った記憶がある。こちらは一人で見たのではなく、デートに誘ってくれた男の子と見た。個人的には消化不良な部分が多く、結果としてそのデートも次には繋がらなかった。映画の出来とデートの出来の因果関係は未だ不明である。


母国フランスで作られた美女と野獣はしっくり来なかった私だが、ディズニー制作のエマ・ワトソン美女と野獣はかなり心に響いた。何度も何度もサントラを聴いて、物語を思い出している。一時期はサントラを聴くだけで映画などの場面がわかるくらいだった。


なぜ、レア・セドゥ版であまり心打たれなかった私がエマ・ワトソン版でここまで感動したのか?全ての答えはベルの孤独の描写にある。

レア・セドゥ版だと(一度しか鑑賞していないので記憶は曖昧だが)、ベルの孤独はそこまで表現されない。一方、エマ・ワトソン版だと物語の序盤にこれでもかというほどベルの孤独が強調される。

映画が始まって、物語は小さな村から始まる。そこで、ベル役のエマ・ワトソンが歌い始める。


小さくて静かな村、今日もいつもと同じ日が始まる。


排他的な村を表現しているのに朝の清々しいメロディにのせてベルは孤独を歌う。

ベルの村では誰も本を読まない。美しさという力を生まれ持ったベルは虐められこそしないものの、村の人々から口を揃えて「変な子だ」と言われる。「体の具合でも悪いんじゃないか?」とも。日本語版の歌詞だと「綺麗だけれど親しくはなれない」とはっきりと言われる。ベルは、自身が孤独だと感じている上に、はっきりと村の住民に排除されている。ベルの自覚は村の住民の態度に裏付けられたものなのだろう。


私は、このベルの孤独に強く惹かれた。気持ちが悪いほどの自意識故だ。私は、恥ずかしながらベルと自分を重ねたのである。

私は小さい頃からとにかく本が好きで、静かな空間が好きだった。黙って本を読むこと。これが、私の幸福な時間だった。小学校は片田舎にあって、私以外に本を読む子はほとんどいなかった。中休みは必ず外に出なければならなかったので、外に出て日陰に座って本を読んだ。

別に友達がいないわけではなかったが、親友と呼べるような存在はできなかった。人付き合いを深く学べないまま、小学校を卒業した。

中高大と進むと、友達は増えていった。けれども、変なやつ!と言われるのは変わらなかった。大学時代は変なやつだらけだったので気にならなかったが、社会人になると同時に、小学校の頃のような「異質さ」を再び感じ苦しくてたまらなくなった。


エマ・ワトソン美女と野獣が日本で公開されたのは2017年4月後半のことだから、私は社会人になって自らが異質と認定される社会に出てすぐこの映画を見たことになる。そこで、私はこの映画に強く惹かれた。ベルは、小さな村を飛び出して自らの理解者に出会うことができた。そんなベルに憧れを抱いたのだと思う。いつか私も、私の理解者、私の魂の半分を見つけられるのではないかと。


悲しいほど痛々しいけれども、当時の私はピュアに夢を見た。私はベルのように美しくはないのに、夢を見てしまった。

今私は、カーステレオからランダムで流れてくる美女と野獣のオープニングを聞くたびにただただ哀しくなる。

うつくしくないベルは、魂の半分を未だに見つけられない。

想像しない人々

私は女だ。

性自認も、身体的特徴も女なので、おそらくまるっきり女だと考えて良いと思う。

女の人には、色々な出来事が身に降りかかる。それはもちろん、男の人にも性特有の出来事があるのだろうけど、女の人には女の人なりの出来事があるよね、という意味だ。


先日「彼女は頭が悪いから」を読んだ。フェミニズムが台頭する中で、女性として自らの立ち位置を決めたかったからだ。まだその立ち位置は決まらないけど、この本は一読する価値はあるものだった。


本の内容は省くが、私には1つ疑問があった。私たちは、特に「彼女」は女性だったことが問題だったのか?頭が悪い(というより、そう捉えられてしまったこと)ことが問題だったのか?

しかし、このどちらも答えではない。と、今のは私は感じている。考えるのではなく感じている。なぜならば、それを体験させられたからだ。これが今日述べたい私の「女の人の身に降りかかる出来事」だ。


私は今日、はじめて会う男性と少しの間会話をした。別に会う約束をしていたわけでもなく、そういった目的の場に赴いたわけでもない。何の変哲も無い飲み屋で飲んでいたら、隣の席の方に少し話しかけられただけのことだ。

しかし、それは私にとって驚きの出来事だった。話しかけられたことそれ自体ではなく、会話の内容が、である。


彼らは自分達を証券マンと銀行員だ、と紹介した。私たちは、そうなんですね、と返した。社名等は聞かなかった。それがマナーだと思っていたからだ。

次に彼らは私たちの仕事を訪ねてきた。私たちは、職種だけを述べた。すると彼らは重ねて社名を質問した。私たちはそっと濁した。それがマナーだと思っていたし、彼らも私たちに具体的な社名を明かしはしなかったからだ。

私たちが社名を明かさないとわかると、彼らは強く追求をはじめた。条件がイーブンでないから教えたくないと言っても、取り合いはしなかった。彼らはヒートアップし、それがあまりに不躾な尋ね方だったので、私たちはがんとして社名を明かさなかった。彼らはどんどん機嫌を悪くした。もともと個別で飲んでいただけだったので、私たちはその頃になるとほとんど相手をしなくなっていたが、彼らは躍起になっているようだった。

すると次に、彼らは学歴を気にし始めた。そこでもしかして、と思った。この人たちは私たちを「下に」見たいのかもしれない。その確認作業がしたいのかもしれない。

彼らのことを不快に思い始めたので、私たちはその後すぐに席を立った。こういった経験ははじめてだった。ある種の感動を覚える経験だった。


考える。

彼らは私たちが女性だったからあんな態度に出たのだろうか、私たちが男性だったら席を立たずに済んだのか。

答えはわからない。彼らの真意はわからないし、「もしも」は検証できない。

でもあの時、私はこの不快を、私たちが女性であることを起因とした不快だと感じた。私は、彼らが「この子たちは女である。女であるからには、自分たちより頭が悪い(社会的地位が低い)存在であるに違いない」と考えていたのではないかと感じた。そして、それを確かめたいのではないかと。確かめて、安心したいのではないかと。考えたのではなく感じたのだ。全くの勘違いだったら申し訳ないが、この感じ方から私のフェミニズムがはじまるのかもしれない。

帰り道、私たちのうちの1人がポツリとつぶやいた。

「わたし、証券会社から内定をもらっていたけど、あんな人たちがいるなら行かなくて良かった。」


彼らは想像しただろうか、彼女が同じ会社にいたかもしれないことを。