換気扇


「あの人、まだ一回しか結婚してないんだって」

「一人の人とずっと結婚してるらしいよ」


オフィスのカフェスペースで今朝適当におかずを詰めた弁当を食べていたら、絶妙な音量で聞こえてきた。

私のことだ、すぐに分かる。

へぇ、と少し意味深な相槌が打たれた後に私は続く言葉を予想する。

マシなパターンなら「そういう人もいるんだね」と続き、それ以外なら大体は「変なの」と言い放たれる。


「私はそうはなりたくないな」


今日は最悪なパターンだ。

なんでそんなことで、お昼ご飯の時も惨めな気持ちにならなきゃいけないのか、と考える。人生35年で何度も何度も言われてきたことだから慣れてはいるけれど、別に落ち込まなくなるわけじゃない。落ち込むことに慣れるだけだ。今日はここから少し仕事のパフォーマンスが落ちて、それでもつつがなく、何食わぬ顔顔で定時に退社して、コンビニでビールを買うのだろう。いや、太るからハイボールかな。


一人で考え事をしていると、食事のスピードはどんどん早くなる。いつの間にか弁当箱が空になってしまった。

「やっぱ私、30までに2回は結婚したいな。」

「私は最低でも男相手と女相手で一回ずつ結婚するって決めてるの。」

彼女たちはまだ食べているらしい。

顔を合わせたくないからもぞもぞと弁当箱にへばりついた米を食べていたけど、もうそれらも綺麗さっぱり無くなってしまった。彼女たちの食事が終わるまで待つなんてバカバカしいし、と考え直してサッサと弁当箱を片付ける。意を決して席を立つと、3人組の若い女の子たちがチラッとこちらの様子を伺ってきた。

ああ、そうだよね、と思う。薄いピンクのカーディガンを着て、茶色い前髪をくるっと巻いて、肌なんかまだまだプリプリだもんね。そりゃ、35歳で結婚一回のおばさん見たら、自分もああなったらどうしようとか考えちゃうよね。怖いよね。そして、こわいからこそどうにかバカにして、その怖さをコントロールしたくなるよね。私が最後に髪を染めたのはもう5年くらい前だし、今日着てるのはGUで1500円のニットだもん。

わかっちゃいる。別に怒りもしない。でもさぁ。すっかりネガティブになった頭で考える。でもさ、3対1よ。それってどうなのよ。別に決闘するわけじゃないけど、3対1よ。卑怯じゃないのよ。あと、お昼がサラダってどうなってんのよ。ちゃんと炭水化物食べなさいよ。それで、食べて、働きなさいよ。

彼女たちへの気遣いは一切なく、自分のプライドのためだけに、私は「何も聞こえませんでしたよ」という顔をして、カフェスペースを出る。


電子音が奏でるメロディと共にコンビニを出る。やっぱり今日はハイボールにした。さっき拓也から「ご飯できてるよ〜」とラインが来ていたので、おつまみは買わなかった。コンビニを出て少しすると、服の隙間からひんやりした風が入ってくる。もう10月だ。

拓也と結婚してから12年目の10月。最初はこんなに長く一緒にいるつもりじゃなかった。ただでさえ最初の結婚が23で、周りより少し出遅れていたから、かなり焦って結婚まで持ち込んだ相手だった。

結婚式が終わった時には、なんとも言えない満足感があった。ああこれでやっと、0だったものが1になった。すごい人たちがよく言ってる。1を100にするのと0を1にするのは同じくらい大変だ、って。きっと最初のハードルを乗り越えた私はこれから何回も結婚して、もしかしたら20回くらい結婚式をしたりして、素敵な人生を送るんだ。本当に、そう思っていた。自分の将来を疑いもしなかった。

でももう12年経った。経ってしまったのだ。周りはどんどん2回、3回目の結婚をしているのに私たちはまだ、離婚すらできていない。2回目のスタートラインにすら立っていない。


コンビニから自宅までの徒歩5分。ちょうど半分くらい来たところに1組のカップルがいた。女同士だったから一瞬友達にも見えたけれど、違う。手を繋いで、優しく見つめあっている。指輪はしていない。結婚はこれからなのだろうか。薄暗いので歳はわからないけれど、多分二人とも初めての相手ではないだろう。お互い進むべきルートを知っているような雰囲気だ。

私もああなれたら、という思いが胸をよぎる。そうしたら、最初の結婚のように少し出遅れてはいるけれど周りと肩を並べることができる。同級生と同じ土俵で話ができるし、カフェスペースで惨めな思いをしなくてもよくなる。きっと結婚式ももう一度できて、あの夢を見ているときのような感覚をまた得られる。それって多分、私を大きく変える出来事なのだと思う。


リビングのドアを開けると、熱気が顔一面を覆った。拓也は換気扇を回さないから、彼が料理をするとその熱気が部屋に溜まる。ついでに臭いとか、煙とかも。

「おかえりぃ〜」

気の抜けた声が響く。

「ただいまぁ〜」

だから私も、つい力が抜ける。

「今日は鍋だよ。鍋パーティー。」

「鍋って、別にパーティーじゃないでしょ。大学生じゃあるまいし。」

「でもさ、今年初めての鍋だよ。鍋解禁!これって、パーティーになりませんか?」

トリビアになりませんか?のノリで聞かれた。乗るのも面倒だけど、パーティーだと思うとなんだか嬉しくなる。パーティーマジックだ。私はどうやらパーティーマジックを求めていたらしい。

「まぁ、じゃあ、パーティーってことにしますか。」

言いながらコンビニで買ったハイボールを掲げる。そんな私を見て拓也はニッと笑う。

「えーっ」

「えーってなによ、そんなニヤニヤしといて。」

「えー、だよ。だってほら。」

そう言いながら拓也も私と同じポーズをとる。手にはアルコール度数強めのチューハイが二缶。

自然と自分が笑顔になるのがわかる。拓也はたまにこういう、魔法みたいなことをする。マジックだ。パーティーマジックに、チューハイマジック。


今日はどうやら豆乳鍋らしい。帰宅時間を連絡していたから、ちょうどその頃鍋が出来上がるようになっていた。出来た夫だ、と鍋をよそう拓也の横顔を見ながら思う。

「なに?人の顔まじまじと見て。」

「いや、」

聞いてみようか、拓也の気持ちを。ふとそんな考えが頭をよぎった。

「もう、12年経つなと思って。」

一瞬ギクリとしたようにこちらを見て、拓也は笑う。

「そうだね」

そうだね?それだけ?私たち、もう12年も結婚してる。それはいわば、停滞しているようなものだ。他の人はどんどん色んな人と結婚して、ぐんぐん先に進んでいってる。拓也は?私たちは、これでいいの?

言いたいことはたくさんあったが、グッと堪えて話を続ける。

「拓也はどう?もう、12年経ったけど。」

「幸せだよ。」

「例えば、離婚したいとか、思わないの?」

聞いた。聞いてやった。もう、いい。もう、どうなってもいい。拓也はそっとおたまをおいて、私を見る。

「思わないよ。」

「え?」

自分でも驚くほど素っ頓狂な音がこぼれた。

「な、なんで?」

「だって、幸せだし。」

そりゃあ、私も幸せだけど。と、口先で呟く。拓也には聞こえたかわからないくらいの小さい声で。

「真奈美は離婚したいと思うの?」

私から目をそらさずに拓也が聞く。拓也が目からビームを出せるような怪物じゃなくてよかったな、なんて呑気なことを考える自分がいる。

「そりゃ、そういうことも考えたことはあるよ。」

「どうして?」

「どうしてってそれはさ」

周りの目があるし。私まだ一回しか結婚してないし。結婚式もまだ一回だし。もう12年も経ったし。カフェスペースでは惨めな思いもするし。飲み会ではみんなその話題を避けたりするし。

どれも、拓也には通じない言い訳のような気がした。

「結婚式、まだ一回しかできてないし。」

なにも思いつかず、一番波風の立たなそうな答えを選ぶ。拓也に、私が拓也を嫌いになったと思わせるようなことは言いたくなかった。拓也が嫌になったんじゃない、ただ、みんなと同じようにもう一度結婚がしたいの。

「じゃあ、もう一回すればいいじゃん」

「え?」

まただ。またすっとぼけた返事になってしまった。

「離婚するってこと?」

自分から提案したくせに、物凄く動揺している。私と拓也が離れるってこと?それ、マジ?あり得るの?

「しないよ」

「え?」

もうこんな声は出したくない。本当に今日は情けない。かっこ悪い。今日の占いは見てないけど、多分蟹座が12位だろう。

「だから、結婚式、もう一回すればいいじゃん。俺と。」

「それって、普通じゃなくない?」

「別に普通じゃなくていいじゃん。ずっと俺たち、変だよ。12年も一緒にいるなんて、変だよ。でもさ、幸せだからいいじゃん。それで、真奈美がどうしても結婚式がしたいなら、もう一回結婚式しよう。結婚自体がしたいなら、今から離婚届だそう。それで、その後すぐに、もう一回婚姻届だそう。普通じゃないからって俺たちが離れることないじゃん。だってずっともう長い間、変なんだからさ。ほら、鍋食べようよ。パーティーだよ、今年初鍋なんだからさ。」

「そうだ、そうだね。」

その後ずっと私はそう、そうだね、と思っていた。拓也の今日のマジシャンぶりは目を見張るものがあったな、とも思った。


それから半年後、私たちは結婚式を挙げた。皆んな自分が何度も結婚式を挙げているからか、同じ相手の結婚式でも来てくれた。ご祝儀は払っとくもんだね、と拓也と笑った。

2回目の結婚式は1回目とは全然違うドレスを着て、あとは大体同じだった。結婚式なんてどこも同じだ。相手が違うだけ。私は同じ相手だったけど、ウエディングドレスが着られただけで大満足だった。胸の踊るようなドキドキはなかったけど、拓也のタキシード姿を見たらなんとなく好きだなぁ、と思った。するめいかを噛んでいたらジュワッと旨味が広がる時がある。そういう好きだなぁ、だった。


カフェスペースは今でも行きづらい。というか、年々行きづらくなる。若い子がどんどん入ってきて、おばさんはどんどん肩身が狭くなる。老いると人はなんだかどこかへ引っ込んで行くけど、皆んなどこへ引っ込んで行ってるのかが、最近の私の疑問だ。

ひそひそ話は今でもされるし、今でも変わらず落ち込む。でも例え複数回結婚していたとしても、容姿とか、仕事とか、なんかそういうことで、ひそひそ言われるのだろう。若い女はしょうがない。そう思うしかない。


「例えば俺と離婚したら次はどういう人がいいの?」

「えー、特にこれといって理想はないな」

「不満とかさ」

「強いて言えばちゃんと換気扇回してくれる人かな」

「そっかぁ。」

「臭いとか煙とかあるじゃん。」

「まぁね。でもさ、ご飯のいい匂いするじゃん。あったまるから、エアコンつけなくてもある程度の寒さはカバーできるし。余計なエネルギーを使わない節約術だよ。」

バカだね、と言いながら私が笑う。幸せだ。

変だけど、幸せだ。