「俺、30までには子ども一人欲しいんだよね」


うわーマジかよ、と私は思う。


確かに最近、裕樹の周りの男たちは結婚と出産のラッシュだった。なんとなく裕樹の口から結婚という単語が出る回数は増えていたし、薄々感じるところはあった。でもいきなり、二人で楽しく焼肉してる時に、不意打ちで、それは、ないんじゃない?

とにかく、沈黙を打破しなければならない。何か言わないと。黙っている時間が長ければ長いほど、裕樹はどんどん機嫌を悪くするだろう。


「へぇ、そうなの。」

まだ生焼けの肉を七輪の上から拾いつつ、平静を装って相槌を打つ。裕樹の顔は直視できない。私の思っていることがバレてしまいそうだから。

「うん。」

明らかに裕樹は、私の様子を伺っている。できることならこのまま会話を終わりにしたい。うん。で終わった会話はそのままフェードアウトしていい、みたいな決まりがあればいいのに。そんなことを考えている間も、裕樹からは無言の不信感が伝わってくる。まだ私は試されている。

「確かにそれくらいの年齢でちょうどいいかもね。」

自分の意思ではなく一般論として、というフレーズを抜きにすると、裕樹の顔はパッと明るくなった。どうやら、今日は私がどのくらい将来を見据えてるか窺い知れれば良かったらしい。

「ねぇ、そうだよね。」

と、満面の笑みで応える裕樹は、それ以上なにも追求してはこなかった。


「昨日彼氏に子供の話し振られてさ…。」

お昼休みに優子に洩らす。あの後裕樹は明らかに機嫌が良くなり、今日の朝も機嫌よく出社して行った。そんな裕樹の様子を見ていると、悪いことはしていないのに罪悪感が募って、一人で悶々と考えるのがたまらなく辛くなったのだ。

ゲッ、というような顔をしてから優子が口を開く。

「彼氏と同棲してからどれくらいだっけ?」

「同棲じゃない、半同棲。」

「そうだけどさ」

あんたたち同棲してるようなもんじゃないの、と優子が笑いながら言う。

そうなのだ。それがより悪い。

「確かにアイツは週の半分以上うちにいるけど、それだってアイツが勝手に押しかけてきてるようなもんだよ…。」

「そうは言っても、美月だってその恩恵受けてるんじゃないの?」

「まぁねぇ。」

確かに、帰った時に家に人がいるというのはいい。寂しくないし、たまには家事もやってくれる。虫が出た時とか、硬いフタが開かない時とか、電球が切れた時とか、居てくれるとかなり便利だ。

「でもさぁ、子どもはまだ早くない?」

優子だってそう思うでしょ?と言わんばかりの勢いで同意を求めてしまう。誰かに共感されないと何かに対して申し訳ないのだ。

「私たち女にとってはね。そりゃ早いわよ。」

ほうら、裕樹、まだ早いのよ。心の中で思う。少し、勝ち誇ったような気持ちになる。つまり嫌な気持ちってことだ。

しばしの間が開いて、続けて優子は呟く。

「女にとっては、ね。」

そう。それが問題なのだ。

私と優子と祐樹はみんな同い年の27歳。そのはずなのに、27という数字は男女によって驚くほど意味を変える。そしてこれは誰にも、どうしようもないことだ。多分、人間が生まれた時から、ずっと変わってない。アダムとイブの時代から女はいつまでも子供を望めるけど、男は歳をとると段々精子が薄くなって、子供ができにくくなる。こればっかりは、どんな愛の力をもってしても変わらない一つの真実だ。

「真剣に考えてあげるべきなのかな。」

優子の神妙な面持ちを見て、私もポツリと呟く。うーん、と優子が俯いていた顔を上げる。

「男の人にとっては、"そろそろ"だからね。祐樹くんのことが本当に好きなら、美月も覚悟を、決めるべきなのかもしれない。」

「本当に好きなら?」

「本当に好きなら、ね。祐樹くんを離したくないなら。」

私がなるほどね、と全く意味のない同意をすると、優子はまた少し目を伏せる。お昼休みがなんだかしょんぼりしたものになってしまった。

「てかこの前の金曜日にコリドー街行ったんだけどさぁ、」

先週のちょっとした火遊びの話を振ると、優子はすぐに笑ってこっちを向いた。

「アンタって最低!」

私たちの昼休みが戻ってきた。最低と言われてどこかホッとした私は、祐樹にバレたらちょっと怒られそうな話で優子を笑わせることに徹した。


『今日も家泊まっていい?』

昼休み終了2分前に祐樹からメッセージが来る。昨日の今日か、と少し戸惑うけれどほとんど反射で『いいよ』と返す。会いたいと思ってくれるのは素直に嬉しい。可愛いなぁ、とも思う。世の男の子たちはみんな可愛い。好きと言ってくれて、会いたいと望んでくれる。それって幸せだ、と思う。

いつもより少し早く仕事を切り上げて家に帰ると、祐樹はまだ居なかった。拍子抜けだ。昨日あんな話をしたもんだから、今日はウキウキしながらご飯を作って待っているもんだと思っていた。暗い部屋の電気をつけて、ソファに座って姿勢を崩す。自然と優子の言葉を思い出した。"本当に好きなら。"


ものの20分ほどで祐樹は帰ってきた。

「やーごめん!仕事が割と立て込んじゃってさ!」

ガサガサと音を立てながら、祐樹はコンビニ弁当を広げる。

「ごめん、飯食っていい?はらへったぁ。」

私の許可を取る前に引き出しを開けて、もう箸を取りだしている。祐樹はコンビニで箸をもらわない。エコ、らしい。私は貰うほうが楽だと常々思っている。

「いいけど、私もご飯食べてないんだ。」

「えっ?食べてないの?連絡ないから食べたんだと思ってた。」

「食べてないよ!もぉー、ちょっとは気を利かせてくれたっていいのに。」

「知らないよ、自分の飯だろ。自分で用意しろ。」

「なにそれ生意気ぃー。」

生意気ってなんだよ、と言いながら祐樹はもぐもぐご飯を食べている。どうやら本当に私の夕飯はないらしい。

「しょうがないから今からコンビニ行ってくるね。」

「おう、すまん。行ってらっしゃい。」


コンビニに行くと、雑貨用品売り場にあるコンドームに目が止まる。付き合って2年ほど経つ今は、ほとんど使うことがなくなった。膣にゴムをつけるのはなんだか窮屈だし、生の方が具合がいい。それに毎度買おうとするには、なかなか高い。祐樹も最初はつけるよう言ってきたが、最近はもう何も言わない。

けれど今日は、なんだか買っておいた方がいいような気がして、コンドームを手に取った。きっと昨日の会話のせいだろう。妊娠というものが現実として襲ってきたようなあの感覚から私を守ってくれるのは、頼りないこの薄いゴム製品だけだった。


「おかえり。何買ってきたの?」

夕飯を食べ終えた祐樹がキラキラした目で問いかけてきた。

「フツーに、サンドイッチ。」

「軽すぎるよ。もっと食え、全く。」

「いいの、ダイエットしたいの。あ、でも2人で食べようと思ってアイスも買ってきた。」

「マジ?ありがとう!見ていい?」

いいよー、と袋を渡す。あざーす、と祐樹が袋を受け取る。祐樹の好きなアイスを買ってきたからきっと喜ぶだろうと反応を待つ。が、喜びの声はいつまでも聞こえてこない。しばしの沈黙。これはまずい。

「ゴム買ったの?」

唐突に祐樹が口を開く。あ、うん。と私は答える。

「なんで?」

「いや別に、最近つけてなかったけど、そういうの、良くないなぁと思ったから。」

下手な嘘だ。分かってる。ごめん祐樹。多分祐樹は私のズルさを一瞬で見抜いたんだ。大きな背中が強張っている。ごめん。心の中で謝りながら、私は祐樹の口から出てくる次の言葉に怯える。

「昨日、あんな話したから?」

祐樹は追及をやめない。やめようよ、謝るから。言いたいけどこれを言ったら何かが終わることを私は知っている。いつから知っているんだろう。多分、アダムとイブの時代からだ。

「話?昨日の話ってなんのこと?」

迷った末に私は、とにかく逃げられる方向を探すことにした。終わらせたくない、その一心で。終わるのが何かはわからないまま、とにかく蜘蛛の糸を手繰り寄せようとしている。

祐樹がこちらを振り向く。分かりやすく怒っていたらまだよかった。困ったような、笑っているような、堪えるような表情をして、口を開く。

「そっか。わかった。」

ごめん。私は絞り出すように呟く。祐樹にはこの声が届いただろうか。

その夜、私たちはお互いに触れることなく眠りについた。完全に眠りに落ちる直前に祐樹は「俺のこと、本当に好き?」と言った。私は直ぐに「好きだよ」と返して、意識を手放した。


翌朝、祐樹はいつも通りだった。今日は会議もないしのんびり会社行こうかな、という祐樹を置いて私は家を出る。会社に着くと、優子が私の方に寄ってきた。

「今日お昼時間ある?」

珍しく神妙な面持ちで優子がこちらを見る。

「あるよ。なに?」

「たまには外にランチに行きたいなと思って。美月に話したいこともあるし。」

「いいよ、じゃあお昼に。」

うん、と頷いて優子は席に戻った。その時にまた祐樹のことも相談させてもらおう、と勝手に考える。


お昼は近くのイタリアンにした。パスタが食べたいと私が言ったのだ。優子はなんでもいい、と言った。

「で、なに。」

パスタが3分の1くらいなくなったところで私は問いかける。優子はずっと暗い顔だ。

「あかちゃんできてた。」

そんなことだろうと思ってた。27歳の女が深刻になる出来事、1位、子供。2位、不倫。3位、彼氏の浮気。

「で、どうすんの?結婚すんの?」

私たち女にとって子どもを産むことは大した問題じゃない。そんなのは頑張れば60歳のおばあちゃんでもできることだ。問題なのは、子どもによって一生が決まってしまうこと。1人の子供を育てるために、たくさんの恋愛を断ち切って、1人の男と生きていかなきゃいけない。もう自由な1人の女ではいられなくなる。

「ううん、堕ろす。」

えっ、と思わず声を漏らす。堕ろすの?堕ろす。聞き返しても同じ答えが返ってきた。なんとなく、優子は産むだろうと思っていた。私たちも"そろそろ"に片足を突っ込んでいるからだ。ちょっと早いけど、早すぎる歳ではないし、何より優子は相手の男のことを分かってあげるタイプの人間だと思っていた。

「なんで堕ろすって決めたの?」

あのね、と優子は言う。意外な答えだった。

「本当に好きなわけじゃないって気づいたから。」

ロマンスの神様、"本当に好き"って、なに?

祐樹のことは相談できないまま、パスタを食べる作業に戻った。


その日、祐樹から連絡はなかった。家に帰っても祐樹はいなかった。気まずくて、今日は来れないんだろう。祐樹への申し訳なさは晴れない。ソファで姿勢を崩しながら祐樹のことを考える。仕事中もどうしたらいいのか考えてしまっていた。コンドームを捨ててこの霧を晴らせるなら、捨ててしまってもいいとすら思う。もし急にこれを捨てたら祐樹はなんていうだろう。こんな小さな箱があの大きな背中を強張らせたのか。手にとって、箱を開ける。久しぶりに見たなぁ。最近つけてなかったからなぁ。個包装のそれをひとつ取ると、何か違和感を感じた。

袋をそっとなぞる。違和感の正体を突き止めたくてマジマジとそれを見ると、小さな穴が空いていた。驚いて12個全て取り出してみる。心臓が強く鳴る。まさか。嘘でしょ。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ…。数えてみると全部だった。全部に小さな小さな穴が空いていた。注意深く観察しないと気づかないくらい小さな穴だ。暗いところだったら絶対に気づけない。限りなく小さくて、私にとってはなによりも大きい穴だった。私はそれをひとつひとつ手に取った。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ。すると自然に、涙が溢れてきた。ごめん祐樹、ごめん。こんなことさせてごめん。怒っていいはずなのに、私はちっとも怒れなかった。ただ自分の家で1人苦しんでいるであろう祐樹に、ここにいない祐樹にひたすら謝っていた。ごめん祐樹。ごめん。ごめんね。



6ヶ月後、私は妊婦さんになっていた。周りの人はとても驚いていた。まだ早いんじゃない?と言う人もいた。私は遅いくらいですよ、と答える。

結局私はあの日久しぶりに自分から祐樹のもとに出向いて、例の穴あきコンドームを使った。なにも気づかないふりをして、祐樹にはなんか破れてたみたい、と言った。祐樹のことが本当に好きだったからそうした。暗がりで祐樹の表情は見えなかったけれど、彼は私に万が一があれば責任はとる、と言った。私はありがとう、よろしく、と答えた。一生が決まっても別にいいやと、その時心の底から思えた。

祐樹は、私たちの結婚と私の妊娠をいろんな人に報告している。そういう時彼はいつも、少しだけ、勝ち誇ったような顔をしている。つまり、びっくりするくらいいい顔ってことだ。